音楽家の社会貢献と社会参画①(『若手音楽家のためのキャリア相談室23』)

箕口一美

3/11の年の終わりに

 

1. 震災をめぐる音楽家たちの様々な想い

(本稿は2011年『ストリング』誌12月号に掲載された記事の改訂版となります。)

この前室内楽アカデミーのフェローと話していて、ピアノのレオン・フライシャーさんが言っていたことに話が及んだとき、思わず「あれは何年前だったけね」と口にしてしまいました。「やだな、みのさん、今年の1月ですよ(笑)」――3月11日(そして一号炉が爆発した3月12日)より以前のことが、記憶の遠景に退いてしまうほど、あの日を境に、その後起きたこと、見聞きしたこと、実際に経験したことは、ひとつひとつ丁寧に考えないと先に進めないようなことばかりでした。

2011年の『ストリング』誌を最初から読んでみると、何が変わり、何が生まれてきたのか、まるで日記を読み返すようにたどっていくことが出来ます。音楽家とその周辺で仕事をする人間たちひとりひとりが、「あの日」と向き合ってきた記録です(だから2011年の12冊は捨ててはいけませんよ)。わたしたちは、否が応でも歴史の証人になってしまったのです。

音楽という芸術活動に関わって生きていることが、今目の前にしている状況と、その状況下で非人間的生活を余儀なくされている人たちに何が出来るというのだろうか――多くの音楽家がそう考え、自分が出来ることは音楽を演奏することしかないと思い、具体的な行動を起こしていきました。

人の心の動きのひとつに「見知らぬ人の苦境を見捨ててはおけない」という強い共感があることを、そして音楽家という人たちは、それを殊に強く感じることが出来るのだということをつくづく納得した日々でもありました。

他方、原発事故が作りだした見えない恐怖の状況が、感じやすい心を持つ音楽家たちを大きく困惑させたことも確かです。相次いだ海外音楽団体や演奏家の来日中止は、ふだんクラシック音楽に関心がない人たちにも些か過剰反応として受け止められていました。当事者である日本政府からの発表が意図的にコントロールされているという不信感も伴っていましたが、団員の正直な声を拾った海外の報道を見る限り、何かしなければという思いと「放射能の分からない恐ろしさ」の間で引き裂かれている音楽家の悲鳴も聞こえてきました。

本当に急な入院で来日出来なくなった、あるヨーロッパの音楽家は「きっと放射能が怖くて嘘をついて来ないんだと思われてしまうんだろうなあ・・・」と、友人にこぼしていたそうです。日本に行くか行かないかが、音楽家にとって「踏み絵」になってしまっている雰囲気があるのでしょう。

交通手段や食料を含む流通が確保され始めた頃から、音楽家自身が現地に赴いて演奏する機会はどんどん増えていっています。

芸術院会員として毎年何回か学校へ赴くアウトリーチを行っている堤剛さんは、今年は室内楽アカデミーの若者を伴い、被災地の学校にも出かけています。気仙沼の学校から帰ってきたフェローは、明るく迎えてくれた子供たちや先生の笑顔の向こうに抱えているだろう思いに、自分たちの音楽が届いただろうか、と考え込んでいました。駅に戻る帰り道、少し遠回りをして被害が酷かった市内を見せてもらったそうです。目の当たりにした破壊の跡もさることながら、そこに重く沈んでいる言葉に出来ない空気を感じて、ますます無力感を感じた・・・わたしたちに何が出来たのだろうか。

陸に船が止まり、赤さびた自動車が積み上げられ、道路の両側に広がるのは、土台の跡だけが残る空白の地・・・昼間見た気仙沼の風景と、東京の何もなかったような繁栄の雑踏との余りの落差に、これを普通と思って暮らしている自分が、何か間違ったことをしているような気分にすらなる――日頃は物事をいつも前向きに捉えるポジティヴ・シンキングの彼女の表情が、只事でなく陰っていたのを見て、とっさに言えたのは、「私たちは癒すことは出来ないかも知れない。でも、何か種を蒔いて来たことは確かだと思う。」――そう言いながら、2004年の新潟中越地震とその後に起きたことを経験した、或る公共ホール担当者の言葉を思い出していました。

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2. 「本当に助けが必要なのは、大災害から3年過ぎてからなのです。

震災直後に差し伸べられたさまざまな支援やボランティアの活動に、今も本当に感謝している。震災一周年では、振り返る催しやそれに伴う報道も大きく、ニュースでも新聞でもトップで扱われ、全国からの関心が高いことが感じられた。それが2年目になると、報道はされるが、扱いも小さくなり、3年目には事実が簡単に伝えられただけ。直後にはたくさんやってきた無料の演奏などの「慰問活動」も潮が引くように行われなくなった。でも、その頃から被災した家族の無理心中や転居先での孤独死が目立ち始めた・・・震災の直接的物理的打撃から立ち直ることに必死だった日々が過ぎて、普通の生活が戻ってきた頃に、心が受けていた傷が表面化してくる。それが「3年過ぎてからなのです。」

彼が勤めているホールは、広域市町村が共同して建てた施設でした。ホール以外の場所、特にホールから距離があって、なかなか公演には来られない人もいる地域での「サロンコンサート」の開催は、ホールの大事なミッションの一つ。震災前から定期的に行っていました。

「地震があって、なかなかコンサートに行こう、という気持ちにならなかったけれど、こうしてまたサロンコンサートを聞きに来られて、自分がやっと『被災者』ではなくなったと感じました。」――アンケートにそんな言葉があって、彼は音楽が出来ること、音楽家の大切な役割を実感したと言います。震災前の日常の中にあったサロンコンサート。それをまた聞けたことが、震災からの立ち直り、日常への復帰の証になった――人々が、やっとそういう気持ちになったとき、そこに音楽があるようにがんばり続けていただろう彼の言葉は、とても重いものでした。

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3. いわきアリオスの発信

東日本大震災でも、たくさんの公共ホールが被害を受けました。津波で完全に破壊された会館もあります。また、公共施設として避難所という役割を引き受け、本来の活動を停止せざるを得なかったところもあります。

いわきアリオス(福島県いわき市)もそのひとつでした。偶々ホールで働く人たちに旧知の人たちが多かったので、地震直後からスタッフやホールの姿勢が直接聞こえてきました。3月11日からホール再オープンまでの半年余りにアリオスで起きたことは、ぜひホールスタッフ自身がルポルタージュして欲しいと思います。スタッフ自身も被災者である状況下、地域コミュニティの公立アーツ・センターとして、アリオスが経験した半年は、その試行錯誤や激しい議論も含めて、アーツとコミュニティの関係の原点を見るようでした。

ホールが閉じられていた間も発信し続けられていた「アリオスペーパー」に、こんなフレーズがありました。 「おでかけアリオスが帰ってきた」 「おでかけアリオス」は、アリオスが行うさまざまなホール外イベントの愛称。それはアリオスのミッションというより、地域のアーツ発信創造拠点としてのアリオスのあり方を決定づけるレゾン・デートルです。

ホール設備があちこち壊れてしばらく使えない、それどころか、市の沿岸部を襲った津波はいくつものコミュニティを破壊し、内陸部も4月11日の余震で死者が出る被害。市庁舎が使えなくなり、小ホールを臨時市役所にすることになり、もちろん建物は避難所に。しばらく有料での催事など不可能だろう――その状況下、スタッフたちがまず決めたのは、とにかく「おでかけアリオス」を続けること。いままでの活動拠点の現状を現地に入って確認し、受け入れてくれた人たちと話し、出来ることを考える。

こうしたアリオスのスタッフたちを応援してくれたのは、これまで主催公演を通じていっしょに仕事をしてきたアーティストたちでした。もちろんその中には音楽家たちもたくさんいます。「おでかけアリオス」の再開は、いわきの人たちにとって「最初に還ってきた日常」なのです。アリオスペーパーからは、その思いがひしひし伝わってきました。

中止になったN響いわき定期の日に、指揮するはずだったブロムシュテット氏がいわき市民を東京に招いてコンサートを行った、という報道を覚えておいでの方も多いでしょう。年に1度のN響定期を楽しみにしていた人たちにとって、仕方ないこととはいえ、この中止は重い心をさらに気落ちさせていたに違いないのです。その意味で、ブロムシュテット氏は、音楽家が今出来ることを見事に行動に移したといえます。

N響自身もそうした声に応えて、翌2012年3月8日にいわきを訪れます。当然有料の公演です。まだいろいろな意味で落ち着かないことも多い中、お金を払って音楽を聴こうという人は・・・という心配をよそに、販売は順調に滑り出したそうです。3月11日から1年を目前にした「新世界より」は、いわきの人々の思いをどんな風に抱きしめるでしょうか。

アリオスが今やっていることは、ひとつひとつ喪ったものを確認し、それを取り返す作業を丁寧に、心を込めて行うことのように見えます。その作業に音楽家をはじめとするアーティストたちが手を添えて加わっているのです。あの日を経験してしまった人たちの喪われた日常を、ひとつひとつ取り戻していけるように。

アリオスの場合、スタッフたちががんばって、必要とされる場所に必要なことを届ける「マッチ・メイキング」の作業を行っており、宮城や岩手でもそういう作業に当たっている方々がおられます。でも、その手間とむずかしさに、現場に携わる人たちからはため息が聞こえてきます。まだまだ生きることそのものの困難さを含め、現場は混乱しています。ですから、中越地震の例に見るように、むしろ3月11日が人たちの記憶から遠のいたときから、音楽家の本当の役割が始まる、と思うのです。

3年過ぎたときから、音楽家と音楽に関わる仕事をしている人間たちに何ができるか、それを考えるために、いささか堅い題目ですが「音楽家の社会貢献と社会参画」について、考えていきたいと思います。

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