コーヒーブレイク④~ワークショップとカンファレンスで考えたこと(『若手音楽家のためのキャリア相談室33』)

箕口一美

 

1. 2010年に始動したサントリーホール室内楽アカデミーの様子

(本稿は2011年『ストリング』誌3月号に掲載された記事の改訂版となります。)

母方の祖母がよく「『一月は行く、二月は逃げる、三月は去る』ものだから、心して日々を送りなさい」と言っていたのを、よく思い出します。

このところ、毎月が本当に慌ただしく過ぎていく理由のひとつが、昨年10月から始まった「サントリーホール室内楽アカデミー」です。毎月のワークショップに向けて、アカデミー・ファカルティ(講師)やフェロー(参加者)への連絡、会場の手配、当日の進行プラン、フェローたちのリハーサル連絡・・・かなりの仕事量が一気に増えました。加えて、仕事の性質が、プロジェクト・マネージャーとコーディネーターを兼務しているようなところがある、つまり、期限がある仕事、時間を管理する仕事と、人間の心の機微を掴みながら人の間を調整していく仕事という質の異なることを一度にしているところがあります。

でも、基本的には若いアーティストたちとの仕事は楽しいものです。

2. アレクサンダー・テクニークの素晴らしさ

1月はピアノのレオン・フライシャーさんを特別ゲスト・ファカルティに迎えてのものでした。天才ピアニストとしてのキャリアの絶頂期に突然、指が動かなくなる病を得て、独奏者としてのキャリアを諦めたときから、音楽家としてのマルチ・キャリアが始まった・・・そういう生き方をした音楽家と出会うことが若い演奏家への何よりのコーチングなのだ――マスタークラスの前日、フライシャーさんはそんな風に言っていました。最近出版した自伝も『My Nine Lives -A Memoir of Many Careers in Music』(Doubledayから2010年11月30日に出版)というタイトルです。

アカデミーで毎回行っているスタディ・ワークショップ(勉強会)も、演奏する人の身体のメインテナンスをテーマにして、「アレクサンダー・テクニーク」の入門編を実施しました。講師には、音楽家のみならず、演劇、ダンス、バレエなどの実演家たちがすっかりお世話になっている細井史江さんをお招きすることが出来ました。1対1の個人レッスンが基本、時間をかけてその人の身体に染みついてしまった不自然な癖を自覚してコントロール出来るようにしていくのがアレクサンダー・テクニークですから、3時間足らずで大人数を見ていただくという無理をお願いしたのにもかかわらず、快諾いただき、12月のワークショップでは、「みんなの身体の下見(!)」までしてくださいました。

アンジェラ・ビーチングも『Beyond Talent:音楽家を成功に導く12章』の中で、優れたセルフ・コントロールのメソッドのひとつとして、アレクサンダー・テクニークを挙げていたので、以前から関心はあったのですが、実践に参加してみて初めてその本質的なすばらしさに、目からウロコが落ちました。

このテクニークの詳細については、それこそたくさんの専門書があり専門家もおられますから、そちらを見ていただくとして、演奏家ならざる身にして感銘を受けた理由を挙げておきます。

 演奏するときの姿勢を「不自然」とは言わないこと。

弦楽器の構えは、左手首をねじり、楽器を首で挟み、右手の指は弓をつまむように挟み・・・と、ひとつとして自然な姿勢ではなく、それが弦楽器奏者の故障の根本にあると常々言われています。でも、細井さんはそれを「不自然」とは言わず、それが音楽家なのだから、そのことを「矯正」するつもりもないと、静かな口調で何度か繰り返していました。

ふむ、ではどうして、姿勢の問題から来る問題に対処するのだろうと思っていると、その心を察したように、「では、みなさん、輪になってください、ゲームをしましょう」――お手玉をひとつ手に持ち、いっしょにかけ声をかけて、右隣の人に投げ渡す。そのとき自分の左隣の人が投げてくるお手玉を同時に受け取る・・・それだけのことを繰り返すのですが、なかなかうまくいきません。そこで、「さっき言ったように、自分の身体の重心、首の位置を意識した上で、同じ動作をやってみましょう」と細井さんの声がかかります。どれどれ、さっき習ったばかりの「プライマリー・コントロール」の基本を頭の中で繰り返しながら、まず立つ姿勢を意識してみると・・・おや?視野が広がるのです。右へ投げるときに相手の手の位置を確かめながら、とりやすいように投げる動作と、左から飛んでくるお手玉の軌跡を確認する動作が同時に見えてくる。すると、当然動作そのものに余裕が出来るので、ちゃんとうまくいく。

今身体がする特定の動作=お手玉を投げながら、受け取るということだけ考えているときよりも、身体の基本動作=重心と首の位置を意識して立つことをまず「考える」ことによって、特定の動作もなめらかになる――それを経験した瞬間でした。

その後フェローたちが実際に楽器を持って(あるいは楽器の前に座って)、演奏しているときに細井さんがそっと補助していくことで、音色の深さが聞こえてきたり、自然な発音になったりするのを目の当たり(耳のあたり!)にするに及んで、このテクニークが根ざしている人間の本質に思わず唸ってしまいました。

 「頭を使って、考えていい」と言うこと。

あなた、考え過ぎよ、と言われ続けてきたせいもあって、特に身体に関わることは「無の境地」にならないといけない、という思い込みがあります。今回「立っているときの重心と首の位置」をちゃんと考えて、意識しましょう、という指導にほっとしました。考えていいんだ、と思うだけで、ずいぶんと気が楽になるものです。

それは、実は「思い込み」を正していくステップでもあって、立位の重心が「考えていた」よりもずいぶんと前の方にあったり(なんとなく前につんのめっているのではないか、と感じるくらい)、首の骨と頭蓋骨の接点が「思ったより」上の方にあったり、というのを確認していく作業でもあります。でも、そのことで「思い込み」を発見し、何が違っているのかを「考え」、そうならないように自分を「コントロール」していくという作業は、とても前向きで、心の姿勢もいっしょに自然な形になりそうです。

アカデミーのフェローだけではなく、いっしょに参加したファカルティからも大好評でした。とはいっても、すぐに自分の身体に染みついてしまった癖(=思い込み)がなくなるわけではないので、毎日こつこつと練習が必要です。あれだけ豊かな音が出せるようになるならば、その努力は無駄にならないでしょう。

細井史江さんのウェブサイト  http://www.alexander-tokyo.com/ 

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3. 音楽家としてのキャリア展開について、大学はどこまで教えられるか

今回、細井さんのお話を聞きながら、実際に体験してみながら、音楽家のキャリアと音楽家であることの関係は、アレクサンダー・テクニークのプライマリー・コントロールと、その職種(音楽家)が要求する特定の動作の関係と同じだ!と頭の中で叫んでいました。

音楽家となる、音楽を職業にするためには、大変高等でかつ専門的な訓練と教育が必要です。どんなにすばらしい教養と経験があり、一つの作品を掘り下げる解釈が出来たとしても、それを音楽そのもので表現出来るだけの技倆なしには、つまり演奏という形で表現出来なければ、音楽家にはなれない。音楽大学が前提としている教育は、その専門家を育てることです。演奏技術と作品解釈に必要な知識と演奏上の経験を積ませて、プロとしての競争に参加できるだけのものを身につけさせるのが、大学という高等教育機関の役割なのです。すべてのカリキュラムがその目的のために組まれています。

他方、音楽大学は専門教育機関である故に、もうひとつの役割、つまり卒業後、すぐに音楽を職業として生きていけるように、演奏や解釈、音楽に関する知識以外のことも身につけさせるべきではないか、まして、子どもの頃から音楽のことだけを「考えて」来た若者を社会に軟着陸させるためには、さまざまな「基本」を実体験させる必要があるのではないか――喩えに使わせていただくならば、人間としての「プライマリー・コントロール」を学ぶ機会を音楽大学はカリキュラムとして準備すべきではないのか。

そのことを巡る議論が、まさに、2011年のNETMCDOの大きなテーマだったのです。音楽家であることと、音楽家としてのキャリアを考えること。それをどこまで音楽大学で教えるべきなのか――音楽大学在学生に対するキャリア支援がディスカッションの中心でした。

Network of Music Career Development Officersのカンファレンスも、このときで16回目になりました。わずか5人あまりで始まったネットワークのカンファレンスも、今回は私のような個人参加も含めて68人、53の学校・機関から参加する大所帯になりました。会場になっている劇場のリハーサル室が人いきれで暑いくらい。いつも暖房の効きが悪いので、厚着をしていったら大汗をかくことになってしまいました。

参加者の中には、若い演奏家たちが自分たちで立ち上げた演奏家相互のネットワークの主宰者もいました。「とにかく、お互いに助け合って、一番苦しい時を乗り切らないとね。インターネットのおかげで、離れていてもつながっていられる。仕事を融通したり、お互い何をやっているのか、仲間はいないか、そんな場所が必要だから・・・」(Tremeur Arborさん談。)

演奏だけではなく、音楽祭を立ち上げたり、自分でNPOを作ったりとクラシック音楽と社会との接点をさまざまな形で作り出しているという若手演奏家たちのパネル・ディスカッションはある意味、衝撃でした。パネリストのひとりが、ピアノのオリー・シャハムだったのです。兄のギル・シャハムといっしょに何度か来日したこともあり、メジャー・レーベルでの録音もある人。その彼女が「わたしは間に合わなかった」という言い方をしました。音楽的才能だけで次々仕事が来る時代は、私の目の前で終わった、と。

今、彼女はソロ活動だけではなく、コロンビア大学で音楽学のレクチャーを行い(2011年現在)、ライターとしても活躍。ポワソン・ルージュ(NYの有名なライブハウス)を会場にして、友人と立ち上げたNPOで未就学児のためのプログラムを手がけています。何か始めたい、何かを実現したいと思ったら自分でお膳立てするのが、今の音楽家の生き方だと言い切る彼女に、21世紀のアーティストを感じたと言ったら大げさでしょうか。

「キャリア教育を意識したカリキュラム改革」というディスカッションでは、卒業したての若手の口から、単位取得のための実技に加え、演奏系の指導者がオファーしてくるさまざまな演奏機会に参加していくと、それだけで目が回るほど忙しい。キャリアサポートセンターが用意してくれる単位外のレクチャーやワークショップに参加している余裕がなかった。むしろ、卒業してからの方が、切実にそうした知識(彼は税金のことを挙げていました)が必要で、専門家に相談するお金もないから、卒業生に対するサービスとしてできないだろうか・・・。

前向きの国アメリカですから、こうしたディスカッションに登場する若い人たちは積極的です。すべての学生がそうではないという現場に日々接している参加者たちの関心は、「では、どうしてこの若者たちのような姿勢で社会に出て行ってもらうか」に向かいます。

今回のカンファレンスでは、カリキュラムの基礎になる「項目出し」のブレーンストーミングの後に、それをカテゴリーに分けていくという作業をみんなでやっていきました。これをみんなで持って帰って、自分たちの学校の現状に何が一番必要かを考える種にする、そんな「カリキュラム以前」のものなので、列挙するにとどめましょう。

▶ Personal vision and planning(自分の展望と計画 →昨年の連載のテーマでした!) ▶ Life Skills(生きていくためのスキル) ▶ Self-knowledge(自分を知ること) ▶ Journey of Self-awareness(自分を知る、自覚する過程) ▶ Foundation of personal independence(精神的自立の基礎) ▶ Maturity(成熟すること) ▶ Entrepreneurship/Management – the process & tools by which we identify and realize an opportunity(起業家精神とマネージメント――機会を見極め実現に結びつける過程とそれに必要なこと) ▶ Interaction and Engagement(双方向であること、関係すること) ▶ Applied musical artistry-fundamental components of active musicianship(音楽芸術の応用――音楽家として活発に活動していくために根本的に必要なこと)

これらはどれひとつとっても、音楽家としてのキャリアを支える基本的な姿勢であり、音楽家であり続けるための「プライマリー・コントロール」ではないかと思うのです。

音楽家として生きていく実際の方法やスキルは、仕事を通して学んでいくことがほとんどです。それが当たり前でもあります。でも、今自分がしていることが「音楽家としてこう生きたい」と思っていることとどういう位置関係にあるのか、これはその過程のどの部分なのか、ゴールに向けて順調に進んでいるのか、それとも横道に入ってしまっているのか、それを自覚しながら客観的に見渡すことで、幸せな、いい音楽家としての人生を歩んでいくことが出来るはずです。

まだ学生のうちに、そうした方向性を見せる機会を作りたい――NETMCDOの参加者たちは、みんな熱心で、親切で、ちょっとお節介かもしれないけれど、自分のことより人のことというタイプの人たちです。年に一度、彼らと会って、同じ羽の鳥たちの中で自分の位置を確かめる、そんな貴重な2日間でした。

NETMCDO ウェブサイト http://www.musiccareernetwork.org

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