コーヒーブレイク②~社会の一員としての音楽家(『若手音楽家のためのキャリア相談室31』)
箕口一美
音楽家として生きていくこと
(本稿は2009年『ストリング』誌11月号に掲載された記事の改訂版となります。)
これまでの連載の中で、何回か「社会の一員としての音楽家」という表現を使ってきました。音楽家が社会の一員である、ということを一番分かりやすい言い方にすると、「音楽家であるあなたの役割分担」のことです。
高校までの学校時代を振り返ってみれば、ピンと来るのではないかしら。○年△組という人々の集いは、人間として、ひとりではなく他の人といっしょに生きていく日々のレッスン場みたいなものです。勉強することが一番の目的ですけれど、この小さな社会がうまく動いていくように、「委員」とか「係」というのが、ひとりひとりに割り当てられていました。
プロの音楽家として生きていくということは、音楽という仕事で生計を立てると同時に、社会の中で「音楽家委員」を引き受ける、その役割を担う、ということでもあるのです。委員や係がちゃんとその役割を果たさないとクラス全体に影響したように、音楽家委員を引き受けたからには、その役割をしっかり果たしていかないと、社会全体に影響します。
一番恐ろしいのは、社会全体(を作っている大多数の人)が「音楽家なんていらない」と思うこと。「保健委員って何やってるんですか?」「図書係は何もしていないように思います」――ホームルームでそんな議論になったことがありませんか?
まだ勉強中の若い人たちには遠くで起きていることに見えるかもしれませんが、日本の社会構造が大きく変わり始めようとしています。モノづくりから人づくりへ、などという言葉もちらほら耳にするのではないかしら。こどもの数がどんどん減っている中、人間ひとりひとりを大事に育てよう、今までみたいに十把一絡げではなく、それぞれの個性と適性を活かそうという教育です。音楽も、これまで以上に心を育てる大事な役割を期待されていくことでしょう。音楽が持っている多面的な魅力――弾いても楽しい、聞いてもうれしい、ひとりでも、みんなといっしょでもいい――は、いろいろな人たちが、それぞれの性格や志向に合わせて関わりを持つことを可能にしてくれます。
そんな社会なら、音楽家の役割分担がとても明快に、しかも多様になっていくと思いませんか? 音楽家は要らないなんて議題が、社会のホームルームに提出される心配はなくなりそうです。
これまで4回にわたってプロフィール作りに取り組んできたおかげで、音楽大生や音楽大学を卒業してまもない二十代の若い人たちに出会う機会が一段と増えました。物心つかないうちから始まっていたキャリア作りの最終段階にいる学生さんたちは、ある意味純粋に音楽と仕事について、思いあぐねていました。音楽を仕事にする、ということがまだあまり具体的な姿で見えていないからかもしれません。「あなたの演奏をどんな風に聞いてもらいたい?」という問いに、「こんな機会にはこんな人にこういう風に…」といった具合の、聞き手が見えている答えは、ほとんど戻ってきませんでした。
それに対して、とにもかくにも演奏してお金をもらうという経験を何度かしてきている既卒のひとたちは、ちょっと苦い経験や失敗を通して、自分の音楽の聞き手の姿が見え始めているという印象を受けました。
プロとして、仕事として音楽を演奏することは、常に誰かのために演奏すること。学生時代までは、音楽と私の関係に集中していても許されました(それが学校という場所の機能でもあります)が、ひとたび社会に出れば、音楽は聞いてくれる人がいて初めて役割を認められ、お金にもつながります。
芸術としての音楽の意味と重要性については、敢えてここでは語りません(そのことを語ってくれる人は他にたくさんいると思います)し、それは音楽家であるあなた自身が、社会の一員として生きていく人生の途上で見いだしていくべきことです。誰かのために演奏すること。誰かとあなたの音楽が出会ったときに生まれるもの。それは経験を通して実感していくしかありません。
次回から「小さな本番」(学校やコミュニティでの演奏機会)を頼まれたときの組立と工夫についてお話しようと思います(これは実は専門!)。社会の一員としての音楽家の役割分担の姿も、少し具体的に見えるかも。